第1回『高野塾 想像力みがき塾』

コロナになって生活スタイルは変わったのか

高野登 今回のコロナという一つの本当にエポックメイキングに近い大きな出来事があって、いろんなことを考えさせられています。
ここで、想像力というものと少しリンクして考えてみると、またいろんなことが見えてくるんですが、最初に油断しているアヤノちゃんに聞いてみましょうか。前回ゼロ会から今回の第1回目までの間いろんなことを考えながら過ごしていたと思うんですけれども。どうですか、今回コロナのおかげという表現は非常に微妙だと思うんですが、コロナがあったことによって今まで自分が気づかなかったような思考回路って動き出しましたよね。あまり今までとは違う姿勢で生きなきゃいけないなとか、例えば、これでコロナが終わりました。じゃあ、今までと同じものに戻れるかというと、実はそうでもないかもしれない。
なんか一番の気づきというか、自分の生活スタイルとか、これからやってみようかなという心構えとか、何かアヤノちゃんの中で変わったなというものがありますか。

 

アヤノ  どちらかというと、コロナになってから怠けてしまったというか、仕事のほうもリモートに少しはなったり、わざわざ通勤しなくてもよくなったという点で、今まで電車が苦手なところもあったので、逆に通勤しなくてよくなったり、あとは電車が空いているということがすごくうれしくて・・・・・・。
でも、自分の思考回路というものとはちょっと違うんですけど、コロナになってよかった面というのは、お笑い芸人の方が今仕事がないのでYouTubeライブをやっていたり、あと私の一番好きなドラマで「CHUCK/チャック」というのがあって、それが2012年に終わっているんですけど、それが寄付の目的のために再結成してリモートで台本読みとかいろんなほかのドラマとかもあったりとか、そういうのがすごくうれしいのと、皆さんやっぱりいろいろ考えているなというのは、まだ自分を生かそうとまでは考えてなくてすごいなというのは見ていて、いろいろ思考を巡らせてやっているなというのはすごいなと思いますし、ファンから見ても今までよりも近くなった気がして、テレビで見るよりも楽しいですし、距離が近くなったのはコロナのおかげというか、あるかなと思います。

 

高野登 なるほど。僕もここのところ1対1も含めてZOOMに慣れてきてしまっている自分がちょっと怖かったりするわけです。つい先日、900人ぐらいの日本人の学生さんたちと3時間一本勝負をやったり、そのすぐ後に今度は1対1のコンサルテーションよりもカウンセリングっぽい話を45分ぐらい語り続けたりとか、本当に今までとは全然違うスタイルが自分の中に入ってきているなというのは感じます。
それと、気がついたんだけど、1対1のカウンセリングとかだと目の前に人がいるという生の状態よりも実はこういう画面を通じたほうがやりやすい場面ってあったりするわけです。これは不思議な感覚で、自分で大丈夫かなと思ったんだけど、意外と向こうもオープンになってくれるし、こちらもちょっときつい言い方をしても「ごめんね、画面通じてなんで」というふうに言えたり、そういう場面もあったりするので意外とこのZOOMというのはコロナの後云々関係なく、一つの大事なツールとして磨き上げていくと、もっと使い勝手がよくなるのかなと。だから両方がバランスよく入って来られるような状態というのが一番いいのかなという気が最近してきています。

 

グローバリゼーションって嘘だよね

高野登 それで、想像力ということでもそうなんだけど、今回僕はコロナで毎日のニュースを見ていたりとか、自分のわりと近しいリッツ・カールトン時代とか、あるいはウエスティン時代の仲間と交信したりしている中でいろいろ感じるんだけど、彼らも同じことを感じていたのは何かというと、「グローバリゼーションって嘘だよね」という話です。グローバリゼーションなんて無い!無いとうか、そもそもグローバリゼーションってあり得ないというところにみんな改めて思いが行っているんだなということに気がつきました。
これ、世界的に共通言語になってくるかというと、この間も金沢で大久保寬司さんとやったときに事前に話したんですけど、「グローバリゼーションって怪しいよね」と言ったら、「あれね、日本人しか使ってない言葉だから」と、正確に言うと日本人だけではないんだけども。元々の出発点を知っているから、いろんな国の人たちはあまりグローバリゼーションという言葉に馴染みがないというよりも使いたがらない。
理由は簡単で、グローバリゼーションというのは地球そのものをアメリカにしちゃえという発想から出ているわけでしょ。インターネットを使って。全部世界がアメリカになったら、アメリカはいいぞという発想から出ているというのが裏にあるわけです。これをみんなが感じているから怪しいわけです。
僕はアメリカに20年にいて、あの人たちのメンタリティというか民族性というか、精神世界を創り出したものって何かというと、アメリカって非常にまだ若い国じゃないですか、日本は2700年以上です。あそこはせいぜい数百年です。それも700年行ってない、500年行ってない、400年行ってないという国は何をしなければいけなかったかというと、あそこに移民で行った人たちが東海岸から西海岸まで西部開拓史をスタートしたわけです。ボストンからニューヨークに行って、そこからシカゴへとだんだんだんだん中西部に行ってカリフォルニアに行くという壮大な西部の動きの中でアメリカという国の基礎を創っていったのと同時に、僕はアメリカ人のDNAに刻み込まれているというふうに感じているんだけども、パイオニア精神です。開拓者精神です。
これの原点はやっぱり西部開拓主義にあると思うんです。それで、西部開拓史の限界は何だったかというと、開拓をしている間はよかったんです。ところが、カリフォルニアに着いちゃったんです。もう無いわけです。そこから先に行こうと思っても、もう海しかないわけです。それで、アメリカの限界というのがまず最初に見えたのがそこでしょ。西部開拓史でパイオニア精神でどんどん自分たちの中に今日より明日、明日よりも来年、来年よりも再来年は絶対によくなる。そういう国に我々は来て、そういう国の中で我々は生きていると思っていて、気がついたらカリフォルニアに着いちゃった。さぁどうしよう。せいぜい次はハワイ、ハワイと言っても島が数個あるだけですから、これ限界がある。困ったわけです。それでアメリカは考えたわけだ。「そうだ、ほかの国を取ればいい」これは極端な言い方をしていますよ。ほかの国に行って、そこがアメリカの一部になっていけばいいじゃないかというので、あちこちチャチャ入れていったわけです。
日本にもチャチャ入れられたし、いろんな形でチャチャを入れてキューバの問題含めて。でも、結局世界をアメリカにするなんていうことはできなかった。でも、彼らの中にグローバリゼーションという発想だけが残ったわけです。DNAの中に。

これを最初に言っとかなきゃいけなかった。僕の話はいつもそうなんですけど、僕の独断と偏見の話を皆さんに問いかけているわけですからね。グローバリゼーションとはこうである。西部開拓史はこうであるということを皆さんに学んでほしいわけではなくて、僕が提案している一つの発想の原点から皆さんはどう考えるかということが、想像力磨き塾ですから、皆さんが想像力を磨いてくれればいいです。 話を戻します。

そうやって限界に辿り着いてしまったアメリカのパイオニア精神がどこに向いたかというと、今度は世界に向いていくわけだ。ちょうどいい具合に、いろんな戦争が終わった後でインターネットなんていうものがリリースされたわけです。これを使えば世界をアメリカにすることが可能じゃないか。また考えたわけです。でも、そう簡単にはいかない。みんながインターネットを手にすることができたので情報網を全部管理・コントロールするなんていうのは一つの国では不可能だということに気がついた。
その気がつく少し前にもちろん彼らは何をしたかというと、地球上に行き先がないんだったら次はどこだ。アポロです。宇宙です。ここを最初に征服すればアメリカにとっては大きなポイントになるわけです。ただ、これもそう簡単なものではないことに気がついた。みんなその技術を持っているわけです。最初に成功した人が「できるんだ」ということさえ示せば、2番手・3番手・5番手・10番手とみんなできるようになる。101匹目の猿じゃないけれども、誰かが成功させてしまったら、これはできると。10秒長いこと切れなかったのに初めて9秒9を出した瞬間にみんなが「なんだ、できるんじゃないか」ということで9秒台もいっぱい出てくるようになったのと同じように、人間のメンタリティというのはどこかでロックされているものが外されると自由に羽ばたき出すと言われます。

それがまさにこれから何回かに分けてスタートしていく「想像力」という話です。それが今回、コロナがあぶり出してくれたものがいっぱいあるんだけど、人間のメンタリティの部分も含め人間性のいい部分も醜い部分もいっぱいあぶり出してくれたんだけれども、僕はやっぱりグローバリゼーションが今回の最大の負け組、だって「グローバリゼーションですよ。世界は一つですよ」と言っているすぐ後にコロナが起きてナショナリゼーション、つまり自国主義、国粋主義、民族主義の前に何の力もなかったですよね、
グローバリゼーション。だって今グローバリゼーションなんて語っている人誰もいないでしょ。もう自国の問題ですよ。アメリカは中国と国交を断絶する。えー! みたいな話じゃないですか。日本も日本で大変だし、ヨーロッパもヨーロッパで大変だし、イギリスがあってフランスがあってイタリアがあって、それぞれがナショナリズムに今一気に戻っていっているということは、グローバリゼーションが今回最大の負け組じゃないかなという視点がまず見えるわけです。
そうだと言っているわけではないです。これも僕の感覚ですから。 そういう視点で今の世の中を読み解いたりこれから先何が起きるんだろうということを読み解いていくと、いろんな可能性があるということです。

日本の国の中を見てもそうじゃないですか。東京と大阪にやっぱりいろんなものが集中している中で、これからは圧倒的に私の生まれ故郷の長野も含めてだけれども、間違いなく地方、それも間違いなく大地に根ざしたものが力を発揮する時代がもうやって来ちゃった。いずれやって来るだろうということはみんなわかっていたんです。
例えば、農業、日本の自給率は39%としています。でも、農業関係者はみんな知っています。「そんなに高いわけないだろう、日本の自給率30%切っているよ」というのが農業の現場にいる人の実感です。そして、今回もそうだったんだけど、やっぱり物流に乗らないような野菜、今回のことで物流がストップしている。あれ生ものです。どれだけの野菜たちが無駄にされていったか、どれだけの野菜が破棄されていくか、これ物流・流通が一気に見直されなければいけない時代にも来ているわけです
僕、子どもの頃もちろん家が農家だったんです。キュウリとかいっぱい作っていました。イモも作っていました。ちょっとだけだけど稲も作っていました。これはほとんど自家用です。でも、キュウリなんてすごかったですよ。
例えば、スプーンよりもちょっと長い棒が農協から農家に渡されるんです。その棒を使ってキュウリを板の上に置いて、この棒がキュウリの下を通ったら農協は受け取ってくれないです。曲がっているから。この棒よりも曲がり具合が少ないものしか農協は引き受けてくれないです。だから、きれいなキュウリが店頭に並ぶわけです。
それで、農協さん曰くこれじゃないと消費者は受け入れてくれない。これじゃないと都会では売れない。だから、まっすぐなキュウリだけしか受け入れてもらえない。だから、子どもの頃に胸が痛かったのは、親父たちが丹精込めて作ったキュウリの内出せるのはだいたい4割で、6割は曲がっていますからと言ってその当時どこに持って行くかというと、畑の隅です。ここに積み上げていくわけです。腐らせるんです。こんなに積み上げたキュウリが腐っていく。今日もまたそこに積み上げていく。そしてまた次の日もキュウリを取った後使えないやつをそこに積み上げていく。漬物屋さんに持って行ってもせいぜい200本か300本。でも、何百本と取れるわけです。しかもキュウリは毎日取らないと伸びるんです。ちょっと置きっぱなしにするとこんなのがたまに出てくるんです。子どもたちは面白がるけど親にしてみたらとんでもない。栄養を取られちゃったと言って。これも畑の隅に積み上げられます。これが日本の流通の長い間の慣習です。

じゃあ、これが今全部改善されているかというと、そんなことないです。今いろんなスーパーに行って、このコロナの時期ですら、私もうちのかみさんに命令されてたまに買い出しに出ました。そうすると、やっぱり出ているキュウリ・トマト・アボカドなんか見てもみんな大きさがきれいに揃っているものばかりなんです。たまにナスなんかで我々が言うハネダシというのがあるんです。サイズが違うものです。これらは別のカゴに入れられて一皿120円、これでは農家はやっていけないわけです。だから、そういうところには出さない。やっぱり今でも同じような状況が起きているということが実は大事なんです。

これ、改善されない限り日本の農業が少なくとも自給率30%を超えることはないです。だから、農家の人たちのメンタリティと流通のメンタリティと消費者のメンタリティが全部揃っていかない限り、一つのムーヴメントは起きないということです。

 

ボーッと生きているんじゃなくて、自分の中で物事を判断する判断基準を置きながら向き合っていく

これもこの研修でいくつかお話しした内容だけど、例えば、私が働いていたホテル、鉄板焼きがあるわけです。鉄板焼きのカウンターがある。そこに皆さんが座ります。私が鉄板焼きのシェフです。
皆さんは鉄板焼きのカウンターに8人座っています。それで私がそこに野菜を持って来てちょんと置いて、お肉をちょんと置いて、それで皆さんにいろんな肉の説明とか野菜の説明とかどういうふうに焼きますと説明をしています。そのときに、皆さんはあることに気がつきました。
私が置いたお肉のお皿の上にあるサーロインとかの脂身がちょっと溶けて見ているとベトッとしてきたような気がする。さぁ、皆さんはどう思いますか。「シェフ、その肉ってベタッとしているんじゃない? さっきまできれいだったけど、そこに置いといたらなんかベタッとしてあまり美味しくなさそうに見えるんだけど」、「あ、大変失礼いたしました。実はこの肉とてもいいお肉なんですが」と言っても、もう皆さんの頭の中ではベタッとしたお肉=食欲をそそらないお肉になっている。こういうことが続いていくとホテルはどうするか。このお肉がベタッと溶けることを何というか、溶けると言うんです。つまり“融点”なんです。
融ける点。この融点が低いとお肉は鉄板焼きの端に置いたときに溶けるんです。お客さんにこれが評判よくないんです。だからホテルはどうするか。農家さんにお願いをして、融点の高いお肉を作ってもらうことができるんです。いろんな化学飼料とかで。場合によっては化学薬品を使いながら融点を高めていくんです。ちなみに牛肉の融点って何度ぐらいか知っています? 平均するとだいたい45℃ぐらいです。42℃ぐらいで溶けるお肉もあります。でも、人間の体温って36.5℃ぐらいが平均でしょ。そこに融点の高いお肉が入るとどうなるかというと、消化できないんです。つまり、自分の体にものすごい負荷をかけながら我々は食事をしているという話だ。
じゃあ、豚肉はどうか。豚肉の融点はもっと低くて39℃ぐらいです。だから人間の体にはそれほど負担にはならない。じゃあ、鶏肉はどうか。ほぼ37℃です。だから、鶏肉が人間の体にとってのストレスからすると、鶏肉が一番ストレスが低いんです。牛肉はストレスが高いんです、最初から。にもかかわらず目の前に置いている牛肉が溶けていく。もっと融点の高い肉を作ってくれと言って農家さんに頼むことがあるんです。そうすると、そういうのを引き受けてくれる農家さんはたくさんいます。そういうお肉はお客さんの前に置いても焼き始めるギリギリまで全く形を変えずにそのままあります、融点が高いから。これがどれだけ体に負担がかかっているかという話です。でも、そのほうがお客さんは喜ぶんです。「今日のお肉はいいお肉だった」。ベタッとするお肉のほうがどれだけ体にいいかということを我々は知っているわけです。
でも、中にはそういうことをちゃんと知っているお客さんも来るんです。「ちょっとその肉、融点高いんじゃないの? このホテル」たまにそういうことをポンと言ってくれるお客さんがいるんです。「実はですね、融点というか溶けないような工夫をしていただいているお肉なんです」、「ふーん・・・・・・」、もうそのお客さんは二度と来ません。そういうちゃんとしたお肉を使っているお店にそういうお客さんは行くんです。ウエスティンに1軒ありますけどね。融点が低いお肉を使っています。とても体にいい。恵比寿の某ホテルです。とてもいいお肉を使っています。それは、体にいい育て方をしているお肉を使っている。だから私が都内で行くそこは安心して行けます。

例えば、そういうことに自分の想像力を持って行けるか行けないか、目の前にある食材一つ一つにボーッと生きているんじゃなくて、どこかで、自分の中で物事を判断する判断基準を置きながら向き合っていく。日々の中にそういうことっていっぱいあるじゃないですか。何となく過ごしている。何となく当たり前、何となくこれが習慣化されているから。
そういう中に「そうかな? 本当にそうなのかな?」という視点を入れながら日々を過ごすと、たぶん違ったものが見えてくるんじゃないかなという気がするんです。 アヤノちゃんは右利きだよね。地下鉄の改札を通るとき右で当たり前にやっているでしょ。でも、世の中の25%近くの人ってこっち(左)にあったらいいよなと思いながら過ごしているということにあまり自分の思いは行かないでしょ。これが当たり前だから。
僕、日本人全部に聞いたわけじゃないけど、少なくとも僕が経験している中で私鉄もJRも含めて左側にタッチできる改札を作っているところを見たことがない。なぜか、左利きがマイノリティだから。マイノリティは切り捨てられるのがこの国です。なんてちょっときつい言い方をするけど。でも、そうとしか思えないことが実は世の中にいっぱいあるわけです。なぜなんだろう? なぜこっちにないんだろう? と考えてもいいじゃない。なぜこっちにないんだろう?
もしかすると、マイノリティだからかな。自分はマジョリティだからこっちを当たり前に使って通勤しているけれども、世の中の25%近くの人はこっちにあったらいいなと思っているとちょっと自分の視点をパッと変えてみたときに、例えば、ホテルで働いているウエイターさんが、目の前に左利きのお客さんが来て自分のリゾートホテルで1週間も泊まってくれている。一番最初に来たときにナイフ・フォークの場所を入れ替えて食べている。でも、それを何気なく見ていると、そのお客さんは1週間毎日自分でナイフ・フォークを入れ替えている。でも、ちょっと気がつくと、例えば、1週間も泊まってくれているお客さんです。しかも、そのお客さんの家族はみんな右利きです。彼だけが左利きだということ気がついたら、次にそのお客さんが予約をしたとき、そのお客さんが座る席だけ敢えてナイフ・フォークの位置を全部入れ替える。そして、そのお客さんが来たときに「余計なことかもしれませんけど私、お客さんが左利きだと見ちゃったんです。うちの姉と一緒なんです。うちの姉も一緒に旅行に行くといつも自分でこれをやっているんです。それで、これをホテルの人がやってくれるといいのにねと姉がブツブツ言っているのを聞いたことがあるんです。それで、入れ替えさせていただきました。いいですか? これで」と言って椅子を引いたら、悪い気はしません。余計なことをしやがってと言うお客さんは今までに出会ったことがない。それでちゃんと椅子を引いてあげる。ここに座ってほしいから。「いいですか? 1週間やらせていただいて」と言うと、「悪いねぇ」と言ってだいたい1日上機嫌になるんです。朝一杯のコーヒーの味が違うんです。
朝食べる卵の焼き方がどうのこうのとか、ちょっとぐらい焦げていても、お客さんの中ではそんなことどうでもいいんです。そうやって自分のことを考えてくれたということが、そのお客さんの1週間のリゾートライフの中の一番のポイントになるんです。ということもちょっと想像してみたらわかるわけです。こんな簡単なことに実は意識を持って行かないホテルマンも世の中にはいるということです。すごくシンプルな話でしょう。

 

日々の暮らしの中で想像力を発揮させない場面はない

でも、残念ながらホテルマンというよりもすべての仕事の中で僕が一番大事にしなきゃいけないものが一つだけあるとしたら、想像力しかないと思うんです。だから今回アヤノちゃんと想像力をテーマにしてやろうよと言った理由はそこにあって、想像力以上に仕事で大事なものはないと思っています。 もっと言うと、日々の暮らしの中で想像力を発揮させない場面ってないわけです。
例えば、朝、朝食をいつも作っているかみさんの味が違ったりします。ちょっと濃いなぁ、ちょっと薄いなぁ、ちょっと焦げているなぁと、そこで想像力を発揮してみて、原因はどこにあるのか、もしかしたら俺か? 夕べなんか言ったあれが気になっているのかな? と、そんなことがあるわけです。
ホテルの現場だと、お客さんの一挙手一投足すべてホテルマンからしてみたら情報源なんです。そこから入ってくる情報を受け取るアンテナを持っているホテルマン。あるいはそういう情報を取りに行くレーダーを持っているホテルマン。あるいはレーダーもアンテナも備わっていないホテルマンがいたとします。皆さんがそこのホテルにお客さんとして行ったときに、そこで過ごす時間にどれだけの差が生まれるかという話です。
いずれにしてもホテルで食事をするなり泊まるなり宴会に参加するなり、時間とエネルギーとお金を投資しているわけでしょ。自分の人生の大事な三要素です。お金・時間・エネルギー、これを使ってその場に行って、そのステージで時間を費やする。それをどう受け止めるか、それをさらに価値あるものにしていくのか、あるいはそのお客さんが「まぁこんな感じだよね。まぁ普通だよね」で終わってしまうのか。「なんか今日はあそこに行って1日得したよね」と思われるようなラウンジのコーヒー1杯なのか、「もう一杯欲しかったんだけど、全然気がついてくれないんだよね」というようなラウンジのコーヒー1杯もあるわけです。同じコーヒーなのに味が違う。だからこれをサービスとホスピタリティという形でリッツ・カールトンは分けて考えているわけです。

 

サービスとホスピタリティ

サービスというものとホスピタリティというのは、いろんな人がいろんな定義で捉えています。すごくシンプルなのは、どこに訴えかけるかという話です。

たまたまレストランに行ってコーヒー1杯、これ、よかったら飲んでくださいと言ってタダで出てきた。うれしいよね? 次に行ったときにまた同じように「よかったらこれ飲みませんか?」と言われた。1回目よりちょっと感動薄いよね。じゃあ、3回目来ました。そのときにいつも通り料理が出てコーヒーも出るんだけど、最後によかったらこれというこの1杯が無かった。無くても普通なんです。今までの2回はオマケなんだから。でも、無いとがっかりしない? え? 今日は無いの? という気持ちになるよね。だって、それ権利としては無いし、当然それお金に含まれているわけではないんだから、無くて当たり前なんだけど、前回も前々回ももらったのに今回もらえてないよねというふうになるんです。

これが怪しいんです。ホテルで働いていると、これ一番怪しい部分なんです。そうやってサービスを積み重ねながらお客さんを食い止めようとしているホテルやレストランをたくさん見ています。限界がなくなるんです。ホテルもそうです。
1回目お泊まりいただきました。そのときにたまたまこのお客さんが期待した大きさの部屋じゃなかった。もっと大きな部屋を頼んだはずだったのに、受けた側と予約しているときの行き違いでホテル側が普通のお部屋を用意したんです。するとお客さんがその部屋に行かれて「これじゃないから、もっとデカイ部屋だよ」と、「ちょっと待ってください」と言ってホテルマンもそのお客さんが帰ったら困るわけですから、電話して「予約のお客様がこうおっしゃっています。部屋はないですか?」、「ちょっと待ってて、じゃあ、この部屋にするから、フロントに行って新しい鍵を持ってお客さんをその部屋に案内して」と言いました。それで、ベルマンはすぐに「申し訳ありませんでした。違う部屋にご案内します。すぐに鍵をお持ちしますからちょっとお待ちください」と言って大急ぎでフロントに行って鍵を受け取って、そのお客様をご案内しました。大きめのお部屋です。お客さんは満足するわけです。「これだよ、この部屋だよ」。そして次に予約をするときに、その部屋の値段が実は結構高いんです。いつもお客さんがオーダーしている部屋よりも。でも、お客さんがこの値段でいいと言うときにはホテル側もこの部屋を用意しなきゃお客さんの満足度を維持することができない。だから、誰々様はこの料金でお部屋のアサインはこっちでいいんだといって、この差額はホテル側が持つわけです。

でも、このお部屋を予約した人はちゃんと3000円なり4000円なり高く払っているのに、このお客さんは安い料金のお部屋を予約しながらこのお部屋をもらうことが当たり前になっている。そのうちに今度はたまたまチェックインに時間がかかったりすると、支配人が「○○さん申し訳ありませんでした」と言って、このお部屋をアサインしながらさらに「大変今日は失礼しました」と言ってちょっとしたフルーツバスケットか何かが届くわけです。そして次に予約をしたときにはこの料金でこのお部屋で、部屋に入ったらフルーツバスケットがないわけです。前回来たときにはフルーツバスケットもらえたんだけど、ともらって当たり前になる。これをずっとやっているわけです。そして最後は入り口のところで総支配人が待っていたりして「○○様いらっしゃいませ。お部屋ご用意してございます」とか言って部屋まで案内するとかどんどんエスカレートしていくんです。これが1人だったらまだなんとかなります。そういうお客さんが2人、5人、10人とかなってくるとホテルはどうなるか。保証します、潰れます。

そうやってほぼ潰れていった状態になっているホテルを地方でどれだけ見てきたことか。どうしてその前のところで気がつかなかったの? と思えるようなことがいっぱいあるんですけれども、みんな気がつかないんです。 サービス競争という中でみんな疲弊していって、一番疲弊するのは現場の人間なんです。自分たちはちゃんとこの料金はこの部屋よりも高い。堂々とこの料金で泊まっていただいて、堂々と自分たちのサービスを提供して、「よかったよ。また来るよ」と言ってもらいたいのに、経営者側が「この人はこの料金でいいんだ。これも入れておけ、あれも入れておけ、これもやっておけ」と言うと、現場の人間のモチベーションがどんどんどんどん下がっていって、自分を磨いていいサービスをしようと、おもてなしをしようというホスピタリティ精神というものがどんどんどんどんなくなっていくんです。まさに負のスパイラルが起きているサービス業をいっぱい見ています。

何が欠如しているか、想像力です。

じゃあ、なんでリッツ・カールトンのお客様はそんなにサービス競争して「今回もあれやりました。これやりました」と言わないのに、ほかのホテルよりも高い料金を払っていただく。
今はコロナでしばらく休んでいますけど。コロナの前まで平均客室単価10万超えていましたからね。1泊だよ。結構高いでしょ。でも、これでほとんどがリピーターのお客様で「また来るよ」と言っていただいて、「よかったよ」と言ってもらうこの理由は何かというと、やっぱり働いている人間の想像力なんです。

どこに訴えかければいいのかということを考える。競争的な部分、表面的な部分ではなくて、その人が持っている感性そのものに訴えかける。その人が持っている感性と自分たちの感性の勝負どころだと思っているんです。 だから、何をまず磨くか。自分の立ち居振る舞いを磨く、これは当たり前です。ホテルマンですから。次に何を磨くか、言葉を磨くんです。言葉って相手の感性にそのままストレートに行くわけです。
例えば、僕がアヤノちゃんの手をひねると痛いよね。そして、3日後にまた手をひねるとまた痛いよね。慣れないでしょ? 10回ひねっても10回痛いじゃない。じゃあ、あなたが本当に努力家で「今回のテーマに関してものすごく自分で時間かけて調べているよね」と言われると、ちょっとうれくしくない? それで、僕がまた次回「今回もまた時間かけて調べたの、すごいね」と言うと、またうれしくない? 3回、4回、5回と僕が「その熱心さというのはすごいよな」と10回、20回褒めても慣れないでしょ。やっぱりうれしいでしょ? 10回褒められたら、もう飽きたからいいし、ということってないでしょ?

なぜそれが飽きないのが、なぜ痛いのが飽きないのか、なぜ褒められても、感謝されても、うれしいなというワクワク感ってなぜ慣れないのかというと、自分の中にある感性そのものからストレートに出てくるものがある。僕は感性そのものに訴えかけているわけです。

目に見える形で。「今回勉強してきたから、これあげる」とか言って、目の前に大好物の甘いものとか置かれても、これは慣れますね。そして、次はもうちょっと違うケーキを期待するよね。でも、僕が喋っている言葉、ちゃんと評価している言葉、勇気づける言葉ってケーキとかそういう表層的なものじゃなくて、もっと深いところにある自分の感性そのものに訴えているから慣れないし、飽きないという当たり前のことをホテルの働く現場で我々は形にしているだけなんです。これを設計と言っています。ホスピタリティを設計する
これは誤解を生みやすい言葉なんで、じゃあ、設計図通りにやればみんなできるんですか?  実は設計図通りにやればみんなできるようになるんです。これはリッツ・カールトンで証明してきました。ただ、この設計図を言われたまま、そのままやるんだったらマニュアル化してしまうわけです。
こういうときにはこういうふうに返したらいいんですか? このお客さんが来たときにはどうしたらいいんですか? これは終わりました。次は何をやったらいいですか? これでは全然ホスピタリティを設計していることにはならない。これはサービスのマニュアルを学んでいるだけであって、自分の中では何も設計されてない。設計する能力ってまさにこれなんです。想像力。想像力を発揮して、自分のあり方を設計し、お客様との距離感を設計し、尚かつお客様のことをきちんと見ている。リッツ・カールトンに入社すると次の日からみんなできるようになるかというと、できません。だから経験が必要です。

 

時間とお金の関係性

失敗する体験も必要です。いい上司に付いて、その上司から褒められることも叱られることも、そしてフィードバックをもらうことも全部含めながら自分の中の力に替えていく、その時間を自分自身に投資できるかできないか。
これ人によってはすぐできるようになる器用な人がいるんです。でも、器用な人ってすぐできるようになるので、どこかで努力することに本気にならなくなる瞬間があるから、どちらかというといいホテルマンで長くやっていくには不器用ぐらいのほうがいいんです。僕自身がそうなのでよくわかるんですけど、そんなに物覚えがよくなったです。器用ではないです。これをずっと5年とか8年とか10年とかやっているうちにだんだん自分のものになってくるということです。だから、器用な人を見たときに羨ましいなと思うことがいっぱいありました。
アメリカでやっていてもそうです。本当に優秀な人たちっていっぱい仕事をして、特にニューヨークなんていうのはコーネル大学、イサカの。そんなに遠くないのでコーネルを出ました! というバリバリの若いのがやって来て、マネジメント・トレーニングがなんかで入って来て、トレーニングが終わって1年半ぐらいでどこかのポジションに付くわけです。マネジャーとかスーパー・バイザーというポジションに。そうすると、あっという間に僕の上に行っちゃうわけです、みんな。でも、どこかで気がつくときがあるんです。
そういうポジションに付いて死に物狂いで自分を高めようと思っている人と、そのポジションというものを自分の踏み台にして、さらにポジション、さらにポジションと行く人と、面白いもので2つに分かれています。それで、10年ぐらい経ったときに、この2つのホテルマンの方向性が見えてきます。それでもすごいなという人たちは何人かいます。でも、やっぱり泥臭くやっている人間が長期戦の中では、どうもいい結果を出しているらしいということに、高々67年の人生の中ですけど、アメリカの20年だけを見ていても、あのアメリカという国の中ですら起きました。

リッツ・カールトンという会社は誰が創ったかというと、5人のヨーロッパからの移民の人たちが創ったんです。だから創業メンバーの中にアメリカ人はいないんです。いわゆるコーネル出身とかネバダ大学出身とかジョージア大学出身でホテル学科、ホスピタリティ科みたいなものを受けた人って誰もいないです。みんな職人技を持っている叩き上げのクラフトマンのような人たちが集まってリッツ・カールトンという会社を創ったんです。だから、彼らの中にある価値観とアメリカンマネジメントの中で一つの会社のトップになっていく人たちのメンタリティはものすごく違ったんです。

何が違ったか、時間とお金に対する視点が違うんです。時間とお金の関係性って考えることあるでしょ。アメリカで生活していると、最初に洗礼を受けるんです。アメリカで公平に誰にでも渡されているものがある。アメリカにいると、誰もが公平に持っているものがあって、その一つが時間です。つまり、1時間という時間は僕にとっても1時間だし、スティーブ・ジョブズにとっても1時間だし、アヤノちゃんにとっても1時間です。同じ1時間が僕だけ75分ということはないわけです。もう一つはお金。1ドルというお金で買えるものは、アヤノちゃんが使っても僕が使ってもスティーブ・ジョブズが使っても1ドルで買えるものは1ドルのキャンディなんです。スティーブ・ジョブズはこれを10セントで買えると、そんなことはない。1ドルのものは誰にとっても1ドルなんです。だから、1ドルを持っている価値そのもの、お金が持っている価値そのものは公平なんです。
もう一つは法律。アメリカというのは出来てまだ短い国ですから、特にジャスティスという表現がよく使われているんです、正義。アメリカンジャスティスというのはアメリカの正義の中で秤にかけられたときに、悪いものは悪いと罰せられるんです。いいものはいいと評価される。だから罪を犯せば、当然のことながら罰せられる。これはスティーブ・ジョブズが罪を犯しても僕が罪を犯してもアヤノちゃんが罪を犯しても、その罪は公平に裁かれるのがアメリカンジャスティスだったんです。最近ちょっと日本もアメリカも怪しいけど。日本なんか特に怪しいよね。あんなことをやっている政治家がのうのうと、駄目だろうみたいな世界・・・・・・、この話になると長いからやめます。

取り敢えず、基本的には法律は誰に対しても同じように適用されるのがアメリカであり、お金の価値も時間の価値も基本的には同じなんです。ただ、それを時間もお金もどう使うのかというところで途轍もない違いが生まれるわけです。同じ1時間でも、これを10時間分に使う工夫をしている人と、1時間もあるのに寝ていたりパチンコで終わらせてしまって、パチンコ業界を批判しているわけじゃないですよ。あれもビジネスで、僕もパチンコ業界の人たちに知り合いも多いし、研修をやらせてもらったこともあります。岡山まで行って。素晴らしい人たちがいっぱいいます。
でも、時間の使い方として無理。比喩としては本を読んでも1時間、パチンコでお金をすっても1時間、新しい事業を考えても1時間、これから先の自分の価値をどう生かすかを考えても1時間、本を書いてみようかなと書き出しても1時間、1時間の使い方はみんな違います。お金もそうです。同じ1ドルでも、同じ100ドルでも、同じ1万ドルでも。その1万ドルを時間をかけて増やして行く人もいれば、時間とともに無くして行く人もいる。だから、お金の使い方とかそういうのも全部違う。

さて、時間とお金。時間とお金の共通点は何か。これは想像力の勉強なんです。時間とお金の共通点は何かの目的を達成するために必要な手段であるということです。例えば、大学に入ります。会社に入ります。何かモノを買いたいです。こういう知識を身につけたいです。というときに、時間とお金はそれを手に入れるための、あるいは目的を達成するための手段です。という点においてはお金と時間というのは共通項があるわけです。

それともう一つは、時間もお金も限りがあるということです。有限だということです。人間300年保っている人っていないわけです。最大生きても今の生物学的には125年が限界だし、僕は110歳過労死を目指していますよ。でも、目指しても保証はない。だからお金も時間も限りがある。有限だということです。これは共通項です。

そして、もう一つこれが大事です。時間もお金も物事の重要性を図る尺度になるということです。つまり、アヤノちゃんがわざわざ自分の時間をかけてここに来て、高野のアシスタントを務めてあげてもいいよと言ってくれているというのは、もしかするとここの時間の使い方って自分にとっては価値があるんじゃないかなと思ってもらっているから来ているわけだよね? あそこに行ってまた高野の話を聞いて隣に座らされて嫌だなと思ったら絶対来ないでしょ。だって来なきゃいけないわけじゃないんだから。
ということは、自分の中で例えば、この人に会いたい、この人と時間を過ごしたい、この人とランチをしたい、この人と話し合いをしたいと思ってもらえる人って、誰かがその人のために時間を費やしてあげるということです。これは尺度なんです。同じようにお金もそうです。いくらかけるか。このセミナーのためにいくらかけるか、この背広を買うためにいくらかけるか、この部屋を借りるためにいくらかけるか、これは全部重要度を図る一つの指標になります。あの人の話だったら時間をかけて・・・・・・。
僕は前にも言いましたけど、フランシス・ヘッセルバインさんという僕のメンターの1人ですけどニューヨークに住んでいます。彼女の本を日本で翻訳をして、そこに帯を書かせてもらったんですけど、これを持って彼女に会いに行きたかったんです。アメリカの国防省のトップが会いに行くような人です。それで、この人に会いたくて、会う方法を探したら見つかって、1泊3日で50万ちょっとかけて行きました。そしたら、それに免じて彼女がディナーを一緒に食べてくれました。それで、1泊3日で彼女に会うために50万かけて、それっ散財だよねと言う人もいました。僕にとってみたら安い投資なんです。

だから、お金の価値というのはすごくわかりやすい。自分の中にある重要度という針がどっちに動くか。この辺でいいよね、これぐらいでいいよね、いやいや、これは絶対にやるべきでしょうという針がどう動くかということを図るわけです。 それで、今度は違う点を考えてみます。時間とお金、もちろん違うんだけど、じゃあ具体的に想像力を働かせて考えてみて何が違うか。時間は誰にでも与えられた時間、量は同じなんです。スティーブ・ジョブズは100歳まで生きるか、彼は残念なことに若くして死にました。でも、平均年齢が今80何歳? 男性は70後半、女性は80超えたりする。ということは、みんなが普通に生きたとして、80何年という時間はみんな共通に与えられている。

それで、何が違うか、時間というのは与えられるお金というのは人によって量が違う。アヤノちゃんが持っているお金の量と僕が持っている量は違う、人間として生きた時間が違うから。そして、スティーブ・ジョブズやマイクロソフトの親分とか持っているお金のパターンが違うんです。孫さんも、どれぐらい持っているかわからない。私の知り合いで一番お金持ちは今4850億円持っています。投資家です。この人はジョブズも若いときから会いに行っていたんです。お伊勢さんとつながっていて日本の首相たちみんな知っている人です。まだ50代前半です。ちょっとイッている人です。ものが見えちゃう、とんでもないところと繋がっています。なんで僕が繋がっているかわからないんだけど。コヴィー博士と僕がコラボレーションさせてもらったときにTシャツで後ろに立っていたのが彼で、その話を聞いて「高野さん友だちになってよ」と言われて、ご飯食べて話を聞いていて「資産ってどれぐらいお持ちなんですか?」、「3500ぐらいかな」と、3500円のはずはないよなと思って、3500億円でした。今4700億円を超えています。でも、変な投資は一切しない。

相違点、人により量が違うのがお金。そして時間とお金何が違うか、時間はほかの人と共有することがあります。今日もそうです。時間とお金の何が違うか、時間は誰にも与えられている時間は一緒。お金は人によって量が違う。それで、時間というのはほかの人と共有することが非常に多いです。1人で過ごす人もいるけど。でも、お金というのは基本的に個人で完結するよね。もらった給料を隣の人と一緒に使おうかということはないです。

自分がもらったものは自分のもの。そういうふうに考えていくと、自分の中の想像力をどこのポイントに絞って磨いていくのかということが、実はすごく大事なポイントになってくるんじゃないかなという気が僕はするんです。

じゃあ、日々の中で自分の時間の使い方、お金の使い方、人脈の使い方、自分の居場所の使い方、これを意識して今ひとつ自分の中で変化が起きにくいなと思ったら3つ変える。時間の使い方を思い切って変えてみる。出会う人を思い切って変えてみる。あるいは増やしてみる。今までとは全然違うジャンルの人、全然スペックが違う人、そういう人と時間を過ごしてみる。そして自分の住む場所とか居場所を思い切って変えてみる

今年は行けるかどうかわからないけど、毎年2週間半ハワイに行っている理由がそこにあって、この2週間半というのは本当に日本とすべてを断ち切って。ネットは3日に1回見ます。それ以外は基本的にすべてのものが遮断された状態の中で過ごす。だから自分の中で当たり前になっているものをいったん遮断してみる。
だから、IT断食って苦しいでしょ、2日間スマホ見ないって想像できる? これを1日でいいからやってごらん、騙されたと思って。本当の友だちが見えてきます。本当の人間関係が見えてきます。それで必要な情報、今まで当たり前みたいにスマホで入っているものの中で、それがどれだけ自分の人生に影響するのかな、今日1日の自分の人生観に影響するのかな、今日1日の自分の成長に影響するのかなと、1日IT断食してみると出てきます。
本当にこの人には連絡取りたいなと渇望するものがある人とだけ連絡をしてみると、これまた面白いです。アヤノちゃんはまだ若いからいいか、これが40代を超えたらこれを定期的にやったほうがいいと思います。そうすると、断捨離が見えてくる。断捨離というのは切り捨てるという意味ではないんです。きちんと整理していくという意味です。これも想像力の一つのジャンルとして捉えていいんじゃないかなという気がします。 最後までお付き合いいただきありがとうございました。